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   〜長い道のりのはてに・・・〜
      
様々な視点からの音楽


ー目次ー


ー遠い昔からー
ー2人から・先生についてー
ーパブロ・カザルスというチェロ奏者ー
ー馬頭琴演奏会から!−
ーCDを聞くという事についてー
ー音楽は進歩するのか?という疑問についてー
ー『ラ』は果たして『ラ』なのかー
ー留学・ウィーンに来てからー
ーウィーンの他の学校・大学のシステムー
ー大学の授業ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・日本語から見た音楽ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・印刷文化ー
ーリズムという言葉ー
ー解釈についてー



ー留学ー


留学をした中で、何が伴奏者としての自分に大切だったのだろうか、何が音楽家としての自分にとって大切だったのだろうか、そう考えてみると、それはきっと大学に入れた事だと思う。


大学の起源を少し考える機会があったので、C.H.ハスキンズという方が書いている『大学の起源』という本を読んでみた。中世ヨーロッパの大学は、学生のギルド(組合)が基となっていて、その学生組合が先生を雇ったのが始まりだったようだ。その後、教師も組合を作るようになり、そういった流れの中で学位が生まれ、今でいう大学の形を作って行ったようだ。この頃は立派な校舎も無く、資料豊富な図書館もない。学生は集まりやすいところを間借りするなどして勉学に励んでいたらしい。


今はどうだろう???


大学を意識し始めるのは、いつ頃のことだろうか?高校生くらいだろうか??早ければもっと早いかもしれない。だけれども、その時点で、○○教授の元で学びたいと思うのは、難しくはないだろうか?音楽の世界ならまだそういう事があると思うけれど・・・
そういう意味で、評判の良い大学を選ぶという選択はとても良い事だと思う。良い大学は、良い人材が集まってくるのは必然だと思うのが、その主な理由である。

そういう意味で、留学を考える前は芸大に行きたいと思っていた。日本で一番有名な音楽大学は、色々意見はあるかもしれないが、やはり芸大なんじゃないだろうか?


そんな事を考えながら芸大受験の準備を始めていたものの、16歳の時にカン先生に出会い、17歳の時にはウィーン留学を考える様になった。そこで色々と揉めたのを良く覚えている。なんと言ってもまだ未成年なんだ(笑)

揉めたというか、議論になったのは、いつから行くか、という事だった。高校を卒業してすぐに行くのか、日本の大学を卒業してから行くのか。自分でも悩んでいたけれど、周りもすごい心配してくれたのを良く覚えている。私は結局短大に行って、それから留学をすることに決めた。



だけど、短大2年の6月にカン先生は亡くなってしまった。私にとってウィーンに留学する理由が消えてしまった。唯一の救いは、その年の2月に伴奏者としての初めての大きな舞台があり、そこで伴奏者としては最悪だった為に、伴奏について専門に学びたいと思っていたことにある。カン先生の元で学べないのであれば、ソロを学ぶ意味もない。だから、これからは伴奏者の道を歩んで行こうと思ったのは、自分にしてみれば不思議でもなんでもなかった。

自分では不思議でもなんでもなかったのだけれど、伴奏者になろうと決めた事で、周りから色々言われることは、まあ、当然だった。なにもカン先生だけがピアノの先生ではない、とか、今までソリストを目指して来たのだからもったいない、などなど。
はっきりと周りは言わなかったが、伴奏者という存在が表に出ない地味な存在で云々・・・とまあそういう事だと私は受け取っていた。(最近は、そういう意味で伴奏は評価されるものになってきたと思う。)

そしてこの頃から、ウィーン音大に入りたいと思うようになっていた。

さて、干渉に浸るのはこの辺にして、少し為になりそうなことを書こう。


ーウィーンに来てからー



そんなこんなでウィーンにやってきたけれど、私はすぐに困った。生活などもそうであるけれど、そこには触れない。入試に関して困った事と戸惑った事を書いておこうと思う。結局この2つの事で悩んだせいで、最初の受験をしない事にした。


困った事と言うのは、伴奏科特有のものである。それは、一口に伴奏を学びたいと言っても、歌曲、室内楽、オペラの伴奏と分かれていた事にある。(私はそんな事すら知らなかった笑)

とりあえず、オペラの伴奏は除外することにした。今では分からないけれど、当時はオペラ伴奏科は、ウィーン市立音大の大学院からしかなかったからである。私は短大を卒業しただけだったから、入試を受ける資格を持っていなかった。
室内楽科か歌曲科で迷ったけれど、歌曲科を選択しようと思ったのは、きちんとした伴奏者の舞台が、歌曲とオペラだったからだと思う。



戸惑った事と言うのは、大学を受けようと思ったら、どうやら、受験をする前に先生とコンタクトをとる必要があるという事だった。お世話になった先生や知人もルッツ先生の事を知っていたし、紹介もしてあげると言われていたので、早く行けば良かったのだけれど・・・個人的な事情で抵抗があった。まだ、習いたい先生が亡くなって1年しか経っていなかったからである。これは本当に個人的な事情なので参考にはならない(笑)

私はたまたまルッツ先生の演奏を聞く機会があったので、ルッツ先生の元で学びたいと思うようになっていったが、先生を探すのにはどんな方法があるだろうか?



日本で先生を探すのなら、マスタークラスを受けた際に、向こうで学びたい旨を告げたり、自分の先生が留学なさっている方であれば、その人を頼っても良いと思う。また、演奏会の楽屋裏に行って、そういう話をする人や、直接先生に手紙を書いて、自分の録音を添えて送る、という人もいるそうだ。


留学先で先生を探すなら、自分で先生方のレッスンを聞きに行ったり、門下生発表会を聞きに行ったりして、習いたい教授を探す人が多いと思う。もしくは、人づてに噂を聞くのも良いと思う。○○先生はとても良い先生、そういった事を聞く機会は結構多い。
先生を探し当てたら、直接こんにちは、と言って話しかければ良いと思う。自己紹介くらいのドイツ語と、連絡先の交換くらいのドイツ語、後は受験を考えているくらいのドイツ語が言えれば多分大丈夫だろう。





さて、無事にコンタクトが取れれば、先生のレッスンを受ける機会、レッスンを受けるというよりは自分の演奏を聞いてもらう機会を作ってもらえると思う。これは、Vorspielen(フォアシュピーレン)とか、Vorsingen(フォアズィンゲン)と呼ばれるものである。


これはどこかで入試前の入試のような感じがする。この最初のレッスンで、教授の方々は、あなたに大学に入れる実力があるかかどうか、また、あなたとうまくやっていけるかどうかを判断していると思われる。結構向こうの人は細かいと思う。年齢、ドイツ語、マナー、そういった様々な事を見ていると私は思う。マナーという面で特に言えば、日本人は信用されていると思う。基本的に日本人は気遣いが上手だと思うから、よっぽどの事が無い限り、嫌われることはないと思う。


なぜこういう機会があるのか、どうしてそんな事まで気にするのか、と考えてみた。おそらく、公的な教育機関における最後の場である大学、そこにその人を入学させるという事は、その人を一人前にするという責任が発生するからだ、というのがその答えだと思う。上手なのは前提だと思うが、それ以上のものが求められると私は考えている。


学友の中で、人を嫌な気分にさせる人はほとんどいない。もちろん、合う合わないはあるとは思うけれど、少なくとも私の周りの学友はとても気持ちのいい人たちばかりだった。そういった事も、もしかすると先生方の眼力のおかげなのかもしれない。



試験での結果が同程度なら、おそらくレッスンに来た生徒を取ると思う。もちろん逆に、レッスンに来て、先生があなたと合わないと思ったら、別の生徒を取る可能性も捨てきれない。そういう意味ではちょっと怖い。

ちなみに、レッスンを受け続けるのならお金はかかるけれど、最初の一回目のレッスン(Vorsingenフォアズィンゲン、Vorspielenフォアシュピーレン)はレッスン料はかからないと思う(私はかからなかったけれど、人によってはかかるかもしれない)。



入試の時期に良く聞かれる言葉は、『プラッツ』という言葉だ。これに悩まされる人は本当に多いと思う(私もそうだった)。『プラッツ』は、ニュアンス的に言えば、生徒を取れる枠の数、平たく言えば定員、というのが正しいだろうか。大体1人の教授が、全学年(日本語で当てはまりそうなものは、大学学部生と大学院生)合わせて取れる人数は15人〜17人くらいだと思われるので、誰かが卒業して、門下を離れないと、このプラッツに空きが出ない(卒業試験は定期的にあるものではない、詳しくは次のページで)


日本では毎年必ず決まった数の募集人数が出ると思うが、ウィーン音大は(おそらくヨーロッパはそうだとおもうのだけれど)、この事から、合格できる人数が毎年一定ではない。教授が持っているプラッツの空き≧合格数である。


日本の入試は、おそらく成績上位者から順に合格判定を出していくと思うが、向こうはちょっと違うと思う。どういう入試のシステムになっているのかはさすがに分からないが、推測すると私は3つに分けられると思う。(あくまで推測)


1 試験で平均以上の点数を取る。その後で、平均以上の点数を取った志願者を、先生が、選んで取って行くという形。

2 試験の成績の結果を上から順にして何人までを取ることにする(例えば10人だったら10人取る事にする)。そして、志願者の先生の希望と、先生が取りたい生徒を照らし合わせて生徒を取っていく形。

3 教授がこの生徒は欲しい、と言って、成績に関係なく取っていく形。



なぜプラッツが問題になるか、と言うと、1,2,3のどれだったとしても、先生が持つ生徒の空き枠が無ければ、先生は、自分を希望した学生を取れないという事にある。希望する以外の他の先生が取ってくれる可能性も捨てきれないが、基本的に、有名無名を問わず、大学の先生のプラッツは空きが無い事の方が多い。もし、試験が2の形だった場合にだけ希望が持てる。なにがなんでも上位に食い込めば良いからである。もう一度書いておくが、これはあくまで私の推測である。


全く希望が無いかと問われると、そんな事はない。プラッツに関しては実際アバウトな問題で、教授が持てる人数は確かに決まっているらしいが、なんとかなる類のものでもあるそうだ。だから頑張れば、一定の素養があれば入れるものでもある。先生だって人間だ、レッスンを受け続けたり、先生を追いかけたりしていれば、希望はあると思う。


もちろん、はっきりと駄目だと言われることもある。逆に、空いているよ、と言われて合格をもらえない事もある。これは楽器毎の教授で性格が結構違ってくる。偏見ではあるが、ピアノ科や、ヴァイオリン科はかなりはっきりと言われると思う。管楽器の方がなんとなくだけどアバウトな気がする・・・また、私が受けた歌曲伴奏科のような、比較的小規模な科は、はっきりと言われない事が多い。途中から私は聞かない事にした。多分、一番聞かれて答えにくい質問は、プラッツの有る無しだと思ったからである。



ちょっと興味を引く話をしてこのページを終えよう。


ある教授がウィーンの他の大学からこちらに移ってくることがあった。その時、その生徒さん達も全員こちらの大学に移ってきたそうである。もちろん試験はあったけれど、全員合格だったそうだ。まあ、うわさなのでどこまで本当かは分からないのだけれど・・・私自身はおそらく事実だったと思う。
こういう事も、人についていく、という大学の起源から来るものなのかもしれない。



少し話題を変えて、ウィーンの他の学校の事も書いてみようと思う。次へ