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   〜長い道のりのはてに・・・〜
      
様々な視点からの音楽

ー目次―

ー遠い昔からー
ー2人から・先生という存在ー
ーパブロ・カザルスというチェロ奏者ー
ー馬頭琴演奏会から!−
ーCDを聞くという事についてー
ー音楽は進歩するのか?という疑問についてー
ー『ラ』は果たして『ラ』なのかー
ー留学・ウィーンに来てからー
ーウィーンの他の学校・大学のシステムー
ー大学の授業ー

ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・日本語から見た音楽ー 
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・印刷文化ー
ーリズムという言葉ー
ー解釈についてー
ー先生と言う存在ー


ー遠い昔からー

 いつから音楽教育について議論されていたのだろうか。序文でも名前が挙がっているアリストテレスは自身の「政治学」という本の中で、こう語っている。先人が音楽を教育としてとりいれたのは云々〜と。紀元前384年に生まれたとされるアリストテレスが、音楽教育について語っている事実にも感激したが、先人が、と書いている事から、さらにその前から音楽教育は存在したようだ。一体いつから音楽教育はあったのだろう。表題通り遠い昔からである。
さて、彼は音楽教育をどのようにとらえているのだろうか。




ー音楽教育 古代ギリシャ編ー

 彼が生きていたころの教育には読み書き、体育、音楽、そして図画があったようだ。今で言えば、読み書きは国語図画はおそらく、図工や、算数になるのだと思われ、音楽や体育はそのままの意味だろう。アリストテレスは『国語や図工、算数は生活に応用がきくだろうし、体育は体作りとなるだろう、では、音楽はどうだろう。読み書き、体育、図画は有用であると人々は気づくが、先人たちが何故、音楽を教育科目として取り入れたのかを疑問に思うだろう』と述べた後、こういう方法でその疑問に答えている。『読み書きが、様々な活動のために役に立ち、図画が、技工の作品についていっそうよく判断できるようにするために役に立ち、体育は健康と力強さのために役に立つ。音楽は仕事や技術の上で有益であったり、生活に絶対必要だという性質を持つものではない。しかしながら、良い時を過ごす、人が幸福に時を過ごせるように音楽を学ぶ、それゆえに先人たちは音楽を教育科目として取り入れたのだろう』そう語り始める彼は、3つの事に言及している。

 この場で、アリストテレスはすごい、という文は非常に似つかわしくないのかもしれないが、あえて言いたい、彼はすごい。3つの事というのは、1つはさらに踏み込んだ、音楽を教育科目に入れるべきかどうかという問題への考察。2つ目は音楽を自らが演奏することをなぜ学ぶ必要があるかへの考察である。そして最後は、教育に使われる音階やリズムについての考察である。







ー音楽を教育科目に入れるべきかどうかへの考察ーアリストテレスー


音楽がどんな種類の性質を持っているのか。
1音楽を聞くことが単に楽しい事であり、休息であり、心の悩みを取ってくれる、そういった、遊び、休息の性質
2音楽は、体育のように体をある一定の性質のものにするように、音楽もまた、習慣づけることによって、彼の性格を一定の性質のものにする能力があるだろうという、教育の性質
3良い時を過ごすという性質
音楽は以上3つの性質を持っていると思われる。だが、若者が教育されるのは遊びのためではないので、1の性質は必然的に取り入れない。また、良い時を過ごすのを子供の時から与えるべきではない、それは、子供たちがいずれ大人になったときに、楽しめるものであればよいのである。では、2の性質について彼はどのようなことを言っているだろうか。

 彼が言うには、『だれもが音楽が描写するものを聞くならば、共感が生じてくるだろう。それはリズムや旋律だけ(この頃の音楽といえば、普通歌がついていた。これに関してはいつか後述する予定)の場合にも起こる。そして音楽の旋律そのものには性格の相似がある。例えば、混合リュディア調と呼ばれるものに対する反応は、哀しげで、重々しい、他の種類のものではいっそう心優しいものに、ドリス調は中庸で落ち着く、などと書き、リズムに関しても同様で、安定したリズム、動きがあるもの、少し卑俗的な物などもあるだろう。』としている。

 音楽の授業で鑑賞会をやった記憶はないだろうか、その時作文や意見などを書いたことはないだろうか?あなたがこの曲は聞いていると穏やかな気持ちになるとか、楽しいとか思ったりしていたら、そこには共感が生じているということだと思う。たとえ書かなかったとしても、それは書かなかっただけであって、きっと心ではなにかを思っていたはずだ、そしてまた、眠くなっただけだった、これはこれで休息を共感したのだろう、それはそれでいいのだと思う。

 ちなみに、この頃の音楽を聞いたことがある人は分かるかもしれないが、今のクラッシックとは全く別ものである。確かにアリストテレスが言うように、私たち人間への少なくない影響を及ぼすものであると私も素直に思える。これらのことから(実際はもっと長いが)、音楽が魂の性格、品格に一定の性質を与えることは明らかであり、そして音楽にそのようにさせる能力があるのなら、若者に教育すべきことは明らかであるし、そしてまた、若者は苦痛であるだけの教育は求めない、ゆえに、もともとの音楽が持つ快さを受け入れるであろう。としている。




ーなぜ演奏する事を学ばなければならないのかー

 あなたはリコーダーを持ったり、メロディオンを持ったり、ハーモニカを吹いたりしなかっただろうか?そこに疑問を持ったことはあっただろうか。私はそもそも楽器を使う音楽教育について疑問にも思わなかった、恥ずかしい限りである。なぜ演奏する事を学ばなければならないかという、彼の考察はとても簡単であるが興味深く、当時のギリシャ人の考え方や、生活観念もわかりやすかったので、取り上げることにした。

ー以下要約ー
 音楽を教育に入れることはもう明らかになったが、では、音楽が魂に一定の性質を持つよう教育できるのであれば、なにも自分で演奏する必要がないではないかと疑問に思うだろう。他人に音楽を奏でさせて、心地よさを感じているだけではいけないのだろうか、考えてもみてほしい、神であるゼウスは自ら歌ったり、歌人の伴奏を自分で弾いたりはしない。むしろ我々は、その種の人々を卑しい技能の者と言い、その種の行いは男子のなすべきことではない。酔っていたり、戯れていたりする場合でなければ。それなのになぜ自らが演奏する事を学ぶのだろうか

 
 演奏に参加しなければ、演奏の優れた判定者になることは不可能、または困難であるだろう。それと同時に、子供たちが音楽に専念するようになると言っている。若い者はじっとできない性質なので、聞くという行為ではなく、演奏するということで、音楽教育をしようと言っている。それは例えば、子供にガラガラを与えるようなもので、若者にとって、教育はガラガラなのである。覚えていないかもしれないが、きっと初めて、なにかの楽器に触れた時はとても夢中になっていたのではないだろうか。そして、音楽に関わることは卑俗であるという事柄については、教育される者がどの程度まで演奏に参加すべきか、どんな種類の音楽に接するか、そしてどんな楽器によって学習するべきかを考えればよいと言っている。そして、警告としては、音楽の種類によっては、教育を受けたのち、非難される結果になるだろうとも主張している。
 
 
 アリストテレスは若者を優れた聴衆にするべきであるがゆえに、専門的な楽器や笛を導入するのを禁じている。笛に関しては、その音色は性格や魂の成長に関わるものではなく、宗教的秘儀にかかわるものであるので、学びではなく、心の浄化に使うものであるとし、加えて笛を使うと、話をすることができなくなるのが欠点であるとして。また、古代楽器の多くも禁止された、技術的な知識を必要とするものは全てである。
 
こうして我々は楽器と演奏についての専門教育を退ける。専門的教育とは、演奏するものが自らの徳のためではなく、聴衆の快感のために練習を積むからである。結果として演奏者は卑俗な芸人に成り果てるとアリストテレスは締めくくっている。






ー第3の考察ー


 これに関しては、政治学が未完のため読むことができない。途中で理論が終わっているからである。ただ、途中までの事を少し書いてみるとする。今現在の音楽の規則などでは少しわかりにくいかもしれないのだが、音階というものが非常に意味合いを持っていたようだ。例えば〜調の性格は霊的である。そういう言い方をなんとなくは分かるのだがイメージしにくい。しかしこれは実際聞いた方が早いと思うので、音源を載せることにする。(少々お待ちください)




ーアリストテレスを経てー



ざっとでも読んで頂けたら嬉しく思っています。
アリストテレスの生きていた時代、奴隷、市民、都市間の戦争、色々今とは違う環境であったのは否めませんが、彼の音楽教育論を見て、素直に感嘆しています。時代は違えど、教育への姿勢、考察は変わらないのだな、そう思い、とても嬉しいです。

 アリストテレスは取捨選択をたくさんしています。2000年以上前の世界なんて考えても浮かびません、場所は違うけど、ピラミッドの作られている時の挿し絵ぐらいしか思い出せません。今よりもっとモノが少なかった時代ですら、すでに取捨選択をしている。子供に、若者に教育するのは本当に難しい事なのだな、そう再認識させられました。もっと感想を書きたいのでけれど、書く言葉が見当たらず、なんというか、不思議な気持ちになっています。

 また、2000年も前に悩んでいる事を、今でも悩んでいる私たちは学んでいないのかなと思う反面、その時代に生きている事は、本質は同じだとしても、その本質を達成、あるいは教育することに関しては、種々様々な状況があり、全てにおいて正しいやり方なんてないのだろうと思いました。100年前に正しいとされている方法が今では正しくないとされたりする。しかしやり方は違っても、目指している目標は同じ。そんな感じがしています。

参考文献
『政治学』アリストテレス  牛田徳子訳  京都大学学術出版会




次の項目では、少し長くなりますが、私の経験と、友人の事、ある二つの本から学んだことを書いていきたいと思います。


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