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   ~長い道のりのはてに・・・~
      
様々な視点からの音楽


ー目次ー


ー遠い昔からー
ー2人からー
ーパブロ・カザルスというチェロ奏者ー
ー馬頭琴演奏会から!-
ーCDを聞くという事についてー
ー音楽は進歩するのか?という疑問についてー
ー『ラ』は果たして『ラ』なのかー
ー留学・ウィーンに来てからー
ーウィーンの他の学校・大学のシステムー
ー大学の授業ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・日本語から見た音楽ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・印刷文化ー
ーリズムという言葉ー
ー解釈についてー
ー先生と言う存在ー




ー解釈という広い世界ー



『人は同じ川に2度入る事はできない』という言葉がある。それは、川が常に流れているからではなくて、川を見ている本人が、例えば子供の時と老人の時などで、その川に対する見方が変わっているからだそうだ。解釈もこれと似たようなところがあるなぁと思う。


今まで私は、表現と解釈を分けて考えてはいなかったと思う。改めて考えてみると、本来的には、解釈が先にあるものではないだろうか。そしてそれを表現する為に、良いテクニック、様々な音色と言った技術がある、という事ではないだろうか。もちろんそんなに簡単には行かないのかもしれないが、そうあるべきなのだろうなぁと最近は思っている。



果たして解釈とは一体何なのだろうか



さて、私なりに考えて出した結論は、解釈する事とは想像する事であるということだ。そう考えてみて初めて、楽譜を解釈する事と、音楽を解釈する事は違うのかもしれないと思うようになった。

もし、解釈という単語をそういう風に言い換えてみると、楽譜を解釈する事は、楽譜を想像する事、という良く分からない言葉になってしまうが、音楽を解釈する事は、音楽を想像する事、と言い換えられる。そういう意味で、楽譜から音楽を解釈しなさい、という言葉も、楽譜から音楽を想像しなさい、と言い換えられる。言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、これは大切な事のように私には思える。


こういう様に考えるようになってから、本当に良く聞く言葉、楽譜を解釈しなさい、楽譜に忠実に、楽譜に書かれていない、こういった言葉が少し気になるようになった。何故かと言えば、こういった言葉は楽譜からしか音楽を考えないようになっていくと私は思うからである。


バッハはチェンバロでもなくハンマークラヴィーアでもなく、クラヴィコードを愛したそうだ。モーツァルトはチェンバロではなくハンマークラヴィーアを。リストとショパンはコンセプトの違うピアノを使用していた。それぞれが違うと思うのだが、そういう事から音符や音楽記号の使い方にも違いがあるとは言えないだろうか。

例えば、モーツァルトが使っていたピアノは高音域ではFが出ず、低音域は結構音が出る。ペダルは膝で押すもので、チェンバロとは違うこの響きをモーツァルトは結構気に入っていたようだ。そういった事を踏まえて楽譜を見れば、モーツァルトのFや、ペダルを使う位置なども考えなければならない問題になっていくだろう。


楽器の事に限らず、印刷文化の事を考えても、その時代の習慣を考えてみても、楽譜には全てが書かれているわけではないと言える。特にアゴーギクにおいて、理路整然と並べられた、印刷された音符のままずっとテンポ通りに弾き続ける事はなかったようだ。これについてはツェルニーが言及しているし、文字の文化の事を鑑みても何となくわかる事である。


しかし、楽譜通りという言葉は、こういった音符の内的要素よりも、外形的要素に縛られていくように私には思える。



アカを落とす事


確かに、楽譜を忠実に表現する事を学ぶ事は非常に大切で、それが無かったら今の自分は無いと思う。

何かのコラムに、海外の大学教育について書かれたものがあった。うろ覚えだけれど、その中に、海外の大学で、最初に論文の書き方を厳しくやるのはなぜかという記事があった。何故かと言えば、高校生くらいまで自分の意見を自由に述べるのが良いとされる教育を受けているので、論文という決まった形で書くことが、彼らにとっては非常に難しいからだそうだ。

私は留学した6年ちょっとの間、楽譜を忠実に表現する事を4年くらいかけて学んだ。上の事と照らし合わせて考えてみると、楽譜を忠実に表現するという学びは、私たちのアカ、つまりは、音楽に長年携わる事で生まれてしまうだろうもの、そういったアカを落とすのに、非常に大切な事であると思うようになった。



ー他人の演奏・色々なレッテルー


マクルーハンが使った言葉に地球村というものがある。どういう意図をもって使ったのか、実はイマイチ分からないのだけれど、電子メディアの発達は明らかに地球を狭くした、とは言えそうである。

音楽の世界も同様で、テレビ、CDやDVD、Youtubeなどで、世界で活躍する音楽家の演奏や、自分の好きな演奏を、どこでも、いつでも見られるようになった。このこと自体は非常に素晴らしい事だと思う。しかし皮肉にも、深い感動を与えてくれる演奏は、私たちの心を掴んで離さないという事が、実際あり得る。そしてそれらは解釈の幅を一旦は広くしてくれるかもしれないが、解釈を一方向にしか考えなくなる、という事が本当にある。



もう1つは、色々なレッテルである。これはこうだ、という物事を一方向に決めてしまうレッテルである。例えば、ベートーヴェンはこうだ、モーツァルトはこうだ、古典派はこうだ、ロマン派はこうだ、というものである。

先生から言われたり、また有名な、高名な音楽家が語るこういった言葉は、彼ら自身にとっては、色々な事を通じて得た宝物である事に間違いはないと思う。しかし彼らはそれを見せてはくれるが説明はしてくれない。宝物を見た人たちは、これは素晴らしいと思い、解釈の道しるべを得た気になってしまう事があり得る。こういったレッテルも他人の演奏を聞く事と同様で、解釈をいったん広くするものの、解釈が固定されてしまう危険があると思う。


楽譜に忠実にという事は、こういったアカを落とす唯一の手段だと私は思う。一度整理されるというのがわかりやすい言い方だろうか、一度プレーンな状態に自分を持っていくのだと思う。これを呼吸をするかのようにできるようになるのは、本当に時間がかかるが、ある程度の期間やる必要があるように私は思う。




ー最後にー


クラッシック音楽はそもそも再現なのだろうか。私は、『そうだ!これが僕の音楽だ!』という風に作曲家に言って欲しいのだろうか?私はそう考えたことがない。
ワンダ・ランドフスカは、創造の上に創造を重ねてはいけないのだろうかと語っている。私もそうあるべきなのではないだろうか。


シューマンは、音楽の為に、詩人の選び抜かれた言葉を変える事が多かったようだ。自分をシューマンと同等だと言うつもりは全くないし、自分が作曲家の楽譜を全然違う風にするつもりもないけれど、詩ではそれが許されたのに、音楽ではそれは許されないのだろうか。単なる、そういう時代だったんだよね、で済まされるのだろうか。


大切な事は、パブロ・カザルスの言葉を借りれば、音楽を再創造する事なのだと思う。結局のところ、楽譜にしても色々な知識にしても、最終的にはそこに縛られるものではなく、それらが詰め込まれた音楽を想像すべきなのだ、自分の耳と心に従って。
全てのしがらみから解放された時、初めて音楽を再創造することができるのではないだろうかと思う。


井出德彦


次は先生についての思いをまとめてみました。

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