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   〜長い道のりのはてに・・・〜
      
様々な視点からの音楽


ー目次ー


ー遠い昔からー
ー2人から・先生という存在ー
ーパブロ・カザルスというチェロ奏者ー
ー馬頭琴演奏会から!−
ーCDを聞くという事についてー
ー『ラ』は果たして『ラ』なのかー
ー留学・ウィーンに来てからー
ーウィーンの他の学校・大学のシステムー
ー大学の授業ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・日本語から見た音楽ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・印刷文化ー
ーリズムという言葉ー
ー解釈についてー
ー先生と言う存在ー


ー『ラ』は果たして『ラ』なのかー



ウィーン留学、そして色々な文献を読んだことで、楽譜に対する考え方をある程度まとめられたと思うので、ここに書いていきたいと思う。そして、こういう考えを持てたのは、おそらく歌の伴奏を学んでいたからだと思う。


ーとある本からー



とある本というのは、題名『声の文化と文字の文化』と言う本で、ウォルター・J・オングという方が書かれている。出版は藤原書店というところで、日本語訳は桜井直文、林正寛、槽谷啓介という三人の方がなされている。この本は音楽に関して書かれていることでは全くないが、音楽に当てはめて考えると非常に似通っている部分がある。この本は純粋に声だけで生活している文化(文字が無い文化)と、文字がある文化との比較である。興味がある方はこの本を読んでみることをお勧めする。これは、ある種の思考の変化を確実にもたらしてくれる本である。ちなみにこの本はどこまで行っても、声の文化を否定するわけではなく、そしてまた、私たちの文化を否定するわけでもない。




この本の中の、『聴覚の優位性から視覚の優位性へ』という部分に面白い記述がある。


『われわれは、読むことは、(まず第一に)視覚的な活動であり、その活動がわれわれに音を指示すると感じているのに対し、印刷の初期の時代の人々は、読む事はまず第一に(語を)聞く過程であり、視覚は単にそのきっかけをつくるにすぎないと、なおも感じている。』
(ちなみに印刷初期とは16世紀頃の事を指す)



楽譜を読む時、4分音符で『ラ』と書かれていたら、目でこの部分は4分音符の『ラ』だと認識する。それから音を出す。という作業をする。おそらく、楽譜に慣れている人は意識的にも無意識的にもそうなっているのではないだろうか?
しかしこの目で見て、という視覚上の行為は非常に深刻な問題を生み出すように私には思える。それは、『ラ』であれば『ラ』。4分音符であれば1拍分伸ばす、という画一的なイメージである。それは文章を読む際の行為と似ている。



例えば、文章として書かれた『私はピアノがすごい好きなんだ』という言葉を見てすぐに理解できるはずである。これは『私はピアノがすごい好きなんだ』という文章をすでに言葉というシンボルとして理解することができるからである。ではあるけれど、これを声に出して誰かに伝えるとなると、私たちは色々な読み方ができるのはすぐにわかるはずだ。ある人は、『私は』を強調するかもしれない。『ピアノが』を強調するかもしれない。あるいは、『すごい』あるいは、『好きなんだ』というように。誰しも、その抑揚が多かれ少なかれ、『わたしはすごいぴあのがすきなんだ』という様には話さないはずだ。


しかし声として聞いた『私はピアノがすごい好きなんだ』という様々な言い方を文章にするときには、日本語であればこの書き方にしかならない。句読点などはあるかもしれないが、その人の話した細かな抑揚までは書かれることは決してない。




こう書いていくと、私が楽譜無信論者に聞こえるかもしれないが、それは違う。
楽譜の記譜は本当に素晴らしいと本気で思っているし、お世辞抜きで作曲家の方々を心から尊敬している。

『西洋の1民族音楽(日本でいうクラッシックの事)が栄えたのは楽譜というものを発明したからである』と、ある教授がおっしゃっていた。ちなみに、ウィーンに留学した中で、この事はかなりの衝撃だった。というのも、楽譜と言う明確な形で音楽を世に残しているのは、西洋の民族音楽だけであり、基本的に他の民族音楽は口伝であった。というからだ。西洋の民族音楽が世界的に発展を遂げたのは、楽譜というツールがあったからに他ならない。そして、楽譜に自分の思いを書こうとする作曲家の執念があったからだとも思う。おそらくこの思いは私たち演奏者が想像しているものよりもはるかに強い。最初期の楽譜、岩に刻まれたモノ、ネウマ譜、黒色、白色記譜法、今の形、それから図画で描いた記譜法、シンボル(そのままの意味で)による記譜。これらは自分の思い描いた音楽を譜面に書き連ねたいと思った、作曲家の執念のたまものであるはずだ。



そして、作曲家は私たちに様々な音楽記号でどういう風に、その音を音として表現するかを書いてくれている。様々な音楽記号が重要であることは言うまでもない。スラーだからスラー。休符なら休符。C-durだから調号がない、ではなくて、それがどのような音の効果を生み出すのかを考える必要がある。それと同様に、なぜその音が、4分音符の『ラ』というものなのかを考える必要がある。4分音符の『ラ』というものに意味がないのなら、4分音符の『ラ』である必要がないのだから。

この問題に気づいたきっかけは、最初に書いた通り、歌の伴奏をしていたからであると思う。簡単に言ってしまえば、oという母音が来るか、aという母音がくるかで、音の響きが変わるからである。それが例え、同じ形状のモノ、何度も言うが、4分音符の『ラ』であったとしてもだ。この事は、まず間違いなくヴァイオリンであれ、ピアノであれ、どんな楽器でもおそらく同じことが言えるのではないだろうか。



ドバイアス・マテイ教授の本に寄せた、ディム・ムーラ・リンパニー氏が書いた投稿の中に素敵な言葉があった。マテイ教授のもっとも有名な助言は、どんな音符でも何らかの意味を持つ様な「音楽をつくれ」だったそうだ。そして彼女自身の言葉で、そしてもし、その音符があなたにとって何か意味を持つものであれば、それはまた、聴衆にとっても意味を持つでしょう、っという言葉で投稿を締めくくっている。



次は留学について書いてみました。





参考文献

『ピアノ演奏の根本原理』 著=トバイアス・マテイ 訳=大久保眞一(眞の左に金ヘン)出版社=中央アート出版社

『声の文化と文字の文化』著=ウォルター・J・オング 訳=桜井直文 林正寛 槽谷啓介
出版社=藤原書店