～長い道のりのはてに・・・～
様々な視点からの音楽
ー目次ー
ー遠い昔からー
ー２人からー
ーパブロ・カザルスというチェロ奏者ー
ー馬頭琴演奏会から！－
ーCDを聞くという事についてー
ー音楽は進歩するのか？という疑問についてー
ー『ラ』は果たして『ラ』なのかー
ー留学・ウィーンに来てからー
ーウィーンの他の学校・大学のシステムー
ー大学の授業ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・日本語から見た音楽ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・印刷文化ー
ーリズムという言葉ー
ー解釈についてー
ー先生と言う存在ー
ーグーテンベルクが音楽に与えた影響・印刷文化ー
この楽譜はシューベルトの『冬の旅』の中の一曲です。一方はシューベルトの自筆譜の複写、もう一方は印刷された楽譜を載せてみました。この譜面を見た時、皆さんはどんな風に感じるでしょうか？人それぞれ、色々な感じ方があると思います。ぜひそれを忘れないうちに読んで頂ければ幸いです。
これから印刷に関する研究結果や、それを基に考えられている事を紹介しながら、印刷が音楽家に与えた影響を考えてみていきたいと思います。
ー西洋音楽は書く事によってー
西洋音楽の特徴は楽譜を発明した事にある、こう言われた時の事を時々思い出します。ウィーンでの歴史的演奏法という授業でした。改めて、楽譜を発明した事とはどういう事なのかと考えてみた時、私は音を音符という文字に置き換える事と、そしてそれを何かに書く事、この２つの事を思いついた事だと思っています。
前回、文字自体について考える事によって、音を音符という文字に置き換えるという発想に関しては、何となしにお伝えできたと思います。今回はもう一方の、書く事とについて考えてみたいと思います。
ウォルター・Ｊ・オング氏は書く事について次のように書いています。
『書く事というのは技術である、技術は人工的なものであるものの、その技術を内面化し自分のこころの一部とすること。そうすることで、人間の心は広がり、その内的な生は密度を濃くすることができる。』
グレゴリオ聖歌から、ルネッサンス、バロック、クラッシック（古典）、ロマン派、近現代までの様々な時代の音楽の変遷を眺めていると、音楽の趣きが様々に変化しているのは肌で感じられるのではないでしょうか。多くの作曲家が楽譜を書いてきた事によって、西洋音楽はその生を密にした、そう言えるのではないでしょうか。
ー楽譜は誰の為に？ー
音楽記号という視点から楽譜を眺めた時、時代が進んでいくにつれて楽譜に書かれる事が多くなっている事に気がつきます。この事は、バロック時代の作曲家よりも、ロマン派の時代の方がこう弾いてほしいという思いが強かったという証拠なのでしょうか。
印刷という観点からこの事を考えていると、興味深い２つの記述にたどり着きました。１つはオング氏の著作から引用したもの、もう１つは音楽学者アルフレッド・アインシュタインの著作から引用し、要約したものを載せたいと思います。
『手書き本の文化は、本の生産者指向である。なぜなら、ある作品の写本の一冊一冊には、筆写する一個人の時間の莫大な消費がこめられているのだから。中世の手書き本は、略号で満ちている。そうした略号は、読者には不都合でも、筆写する者には好都合なものである。』（オング氏）
『１７、１８世紀の音楽作品は、依頼されて書かれたものであったり、何か特別な機会に演奏されるものであった。その頃の音楽作品は印刷されることはなく、作曲家自身が印刷を試みることもなかった。例えば、バッハも自分のカンタータ１曲ですら印刷しようとはしなかった。』（アインシュタイン氏）
手書き本の文化が終わりを迎えようとする時代、印刷が始まった頃の時代において、楽譜は誰の為に書かれていたのでしょうか。２つの記述から考えると、楽譜は今のように不特定多数の人たちの為に書かれたものではなく、作曲家自身や、作曲家と直接関わりを持つ人たちの為に書かれたと言う事ができそうです。
そういう風に考えると、この時代の作品にほとんど音楽記号がないのはどうしてか、という疑問も何となく解ける気がします。この時代に作品が演奏される時は、作曲家が不在という事は無く、どういう表現をしたらいいのかを直接伝える事ができた彼らは、楽譜に最低限の事しか書く必要がなかったと言えるのではないでしょうか。
さて、印刷技術が時代と共に浸透していき、音楽作品は徐々に広い世界へと飛び立っていくようになりました。そんな中、作曲家が、自分の作品は多くの人たちの目に触れるのだと感じ始め、そして、自分の思いを少しでも伝える為にはどうしたら良いのかを考え始めた時、彼らは様々な音楽記号を書くようになった、こんな風に楽譜は、作曲者中心の世界から、私たち読者の為に書かれるようになったのだと私は思います。
もし、印刷文化がもう１００年前に幕を開けていたら、バッハもモーツァルトも私たち読者の為にもっと多くの音楽記号を書いてくれたのかもしれません。
ー書かれたものは印刷によってどうなった？ー
書くことによって生まれた書かれたもの。それは一体どんな特徴を持つのでしょうか？オング氏の著作からの引用を要約してお届けします。
『書物は、ある発話をその発生源、つまり、その書物を本当に「語った」者、あるいは書いた者から引き継ぐのである。会えさえすれば、著者に問いただすこともできるだろうが、書物の中では著者に会う事は絶対にできない。
テクストに直接反駁する方法もない。完膚なきまで反駁したあとでも、相変わらずテクストは同じことを語り続けている。「書物にはこう述べられている」と言うと、「それは真実だ」という意味に受け取られてしまう理由の１つはそんなところにある。テクストは、この世に存在する限り同じことを語る。強情で融通がきかないのが、テクストの本性である』
最初の自筆譜と印刷譜を思い出してみましょう。２つの楽譜は書かれたもの（テクスト）であるし、それが指し示す内容は同じものである事に間違いはないと思われます。ですが、この楽譜が生まれた背景には、大きな違いがあります。テクストは印刷によって強められたと言う、オング氏やマーシャル・マクルーハン氏の言葉を借りながら書いてみたいと思います。
自筆譜はシューベルトのみが書いています。ですが、印刷譜の方は厳密にシューベルトが書いたものではありません。例えば、ペータース版ならおそらくマックス・フリードレンダーという方がシューベルトの自筆譜から解釈し譜面を作り、それをペータースという出版社がチェックしたり、どのように印刷するかを考える。その際、音符は手書きのものに比べ、はるかにきちんと整頓された形で並べられていく。そうやっている内に印刷の原本ができあがり、次は印刷会社に持ち込まれ、印刷されていく。
何が言いたいかと言えば、印刷譜は自筆譜と比べ、はるかに多くの人の目に触れられた上で生まれた物であるという事です。楽譜を見る時、私はこんな事を考えて見る事はありませんでしたが、これは重要な事だと思い直しました。なぜなら、印刷されたものの特徴は次のようなものだと言われているからです。
『印刷されたものは、様々な人の目に触れられている事、テクストは正しい文字、正しい文法で書かれ、書かれた文字もきちんと整頓されている事、そして同じ品質の物が大量に出回っている事、この３つの事から著者の最終的な出版物であるとか、書かれている事が正しいという印象を、私たちに与えるようになった』
様々な工程を経て世の中に出される印刷譜は、もちろん印刷されたものの特徴があてはまると思います。つまりは、印刷譜は作曲家の最終的に言いたいことが正しく書いてある、という様に私たちには見える。
この見え方が間違っているのは、印刷を念頭に置いていないバッハやモーツァルトの時代から考えればすぐに分かります。印刷されるものが多数の人の目に触れられるという事が、どういう事なのかがはっきりし始めたのは、おそらく近現代の音楽においてだと思われます。確かラヴェルだったと思うのですが、書いてある通りにやれば良い、という言葉を残していたと思います。（ただ、ラヴェルの性格を考えてみると、また違った一面が見えると私自身は思っていますが）
ー印刷は私たちに変化を与えたー
これまで、私は印刷が楽譜に与えた影響を主に書いてきました。
印刷は、楽譜にのみ影響を与えたのではありません。印刷が私たちにある変化をもたらしたことが研究によって明らかにされています。
印刷文化が私たちの生活に根付いたころ、読むという行為に変化が出てきました。元々読むという事は例外なく音読する事を意味していたそうです。これはとても面白い事で、活版印刷が生まれる前の時代は、読む行為は、声を出して読む、というよりはかなりの調子を伴った演説や朗誦のようなものだったそうです。（日本でも明治時代に、本を声に出して読む事を禁ずる、という貼り紙がしてあったそうです。）
読む事が音読だった習慣は根強く残っていたものの、その習慣はほとんど無くなり、私たちは今何かを読む時に声に出すという行為はせず、黙読という行為をします。この事は、印刷が何世紀にも渡って私たちに影響を与え続け、ついに人間の感覚すら変化させた結果ではないかと言われています。
オング氏は、かつて物事を決定する重要な要素は、聴覚であり視覚ではなかった。それが、印刷の影響によって、文字を音として聞いて内容を捉えるのではなく、目で見てその内容を理解するようになっていったと著作の中で書いています。
この聴覚から視覚への変化が、先ほどまで書いてきた印刷が楽譜に与えた影響とつながる事によって、音楽家は不利益を被ることがあるのではないのかなと私は思いました。
作曲家の最終的な出版物であり、作曲家の言いたい事が正しく書かれているという印象を持つ印刷譜を視覚で判断する事は、目の前にあるものを正確に表現すれば良い演奏ができると思ってしまったり、反対に、どんなに素晴らしい音楽的イメージがあっても、整頓された音符を見る事で、演奏者がそれに縛られてしまう事、そういった悪影響が色々な場面であり得るのではないのだろうか、という結論に至ったからです。
ー最後にー
どうしたら良い演奏表現ができるのだろう？そう考えてるといつでも色々な問題に出くわします。印刷が私たちに与えた影響もその１つです。この事を考えた時、当たり前の事だけれども、音符を音としての世界に戻す事が大切なんだなと感じました。
音を聞く事で、初めて私たちは、作曲家がどういう世界を創造していたのかを感じ取れるのではないでしょうか？聞く事で音楽を想像する事、それを自分の手で再び創造する事、そしてまたそれを聞く事。このプロセスを自分の中の音楽作りの基本にしていきたいなと思っています。音楽は譜面の上にあるものではなく、自分の頭の中にあるのだとも感じ始めています。
最近、上手く弾きたいと思えば上手く弾けないという事は、つまる所、弾こうと思えば弾けないという事と同じなんだろうと私は思っています。弾こうと思うのではなく、弾く前には全てが終わっている。先ほどのプロセス、どのような音楽かを想像し、それをどのように創造するかを考える事、それを積み重ねていくうちに、あたかも自分と音楽が同じような存在になることで、より良い表現ができるのかなと思い始めてもいます。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。もし、少しでも何か感じる事があれば、私はとても嬉しいです。
井出徳彦
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