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〜伴奏という広い世界〜
      
  伴奏者としての私


ー目次ー
 
ーLektion1ー   ーまず手始めにー
 
ーLektion2ー   ー歌ってみようー
 
ーLektion3ー   ー処方箋としてのブレスー
 
ーLekiton4ー   ー前置き・本題ー
 
ーLektion5ー   ー本題その2
 
ーLektion6ー     ー有節歌曲ー
 
ーLektion7ー     ー伴奏が好きな理由ー
  ーLektion8−    −伴奏が好きな理由2−
  ーLektion9−     ー伴奏について最近思う事ー
 ーLektion10ー    −F.シューベルトー
 ーLektion11ー    ー歌曲に取り組むー
 −Lektion12−    −歌曲に取り組む・その2−
 −Lektion13ー     −拍についてー
 −Lektion14ー     −ドイツ歌曲をグループ分けしてみるー
 ーLektion15ー     −詩の解釈と音楽表現ー




ー歌曲に取り組むー




伴奏をしていて何となく上手く行かない、何か不自然さを感じる、そんな事はしょっちゅうある事だと思う。今回は難しい事は抜きにして、私は時々こういう風に譜面を眺めて、こういう風に解釈している、という事をつらつらと書いていこうと思う。

少し書くのを迷ったりもした。というのは、これから書く事は少し即物的な要素があり、本来はどうしてそうなるのか?という事をきちんと書かなければ、応急処置で終わってしまうように思ったからである。
だけれども、やはり書こうと思ったのは、読んでもらえて何かのお役に立てればとても嬉しいし、彼はこういう風に考えているんだ、と知ってもらえたら嬉しいからだ。前置きが長くなってもあれなので、どんどん書いていこう。今回のテーマは、私がこれまで培ってきた事を基に、今考えている作曲家ごとの音楽記号の違いです。



・シューマンのアクセントは、音が強いというよりも、ちょっと強調して、なおかつ少し時間をかける、という風に私は読み取っている。それはちょっとした場面転換だったり、歌手に準備がいる場所だったりするからである。叩きつけるのではなく、音の広がりを感じると自然と時間がかかる、という感じだ。シューベルトのアクセントは、いわゆるアクセントで、時間をかけてほしい、という風には見えない。その役目はシューベルトにおいては、スフォルツァンドがその役割であると思う。


・シューベルトとシューマンのスフォルツァンドは似ている。時間をかける、と書いたが、どちらかと言えば、悲しみや苦しみの重さ、あるいはその反対の激しさを表す時の怒りの一撃のような、それを表すために時間がかかる、と思った方が良いかもしれない。


・ベートーヴェンとブラームスの<>(文字ではなく、記号としてのクレッシェンド・デクレッシェンド)は、伴奏においては音量の変化、というよりは、テンポの変化である場合が多い。クレッシェンドは緊張感を保ちながら遅くなり音量も増える。丁度記号の真ん中を境に、段々と音量を落とし、またテンポも落ちていく。これは、波が寄せて引いていくという感じに似ていると思う。


・シューベルト前後の時代(ここではハイドンやベートーベンからブラームス辺りまでの事)の作曲家のcrescendo(記号ではなく文字として書かれている場合)は、その始まりの音量を落とした方が良い場合がある。その前の音楽がメゾフォルテやフォルテだった場合は特にそうであるように思う。decrescendoはその反対で、mfくらいから始めると言い場合がある。

・ベートーベンのcrescendoは、先ほどの記号としての<とは違い、音が大きくなっていくという意味で、テンポの変化は意味しないように思う。

・シューベルトのdecrescendoとdiminuendoは意味が違うそうだ、これはルッツ先生がよくおっしゃっていた。dim.の方は、段々ゆっくりしながら、小さくなるそうである。

・ベートーベンのリタルダンドは、わりとすぐにゆっくりになる。良く私たちは、リットと書かれたところでいきなり遅くならないで、と注意を受けるが、彼の場合はそうでもない時があるように思う。段々と遅いのではなく、書かれている場所の少し前から、ほんの少しずつ遅くなり、リタルダンドのところではもう遅いという感じだ。シューマンはその逆で、リタルダンドと書かれている場合に、ほんの少し進めてからゆっくりするとしっくり来る事がある。


・ブラームスのアーティキレイションは、全てにおいてはっきりと書かれている。これくらいの時代になると、ペダルを用いる事が普通になってくると思うが、それでもアーティキレイションははっきりさせるべきであると思う。

・ブラームスのスラーとスラーの間に若干の間を持つと歌と自然に合う事が多い。その場所は、時間がかかる子音がある場合が多いからである。


・ハイドンやベートーベン、シューベルトで共通しているところは、フェルマータの前は少しずつ遅くなることである。これは他のどんな指示よりもきちんと行わなければならないと思う。
余談だが、ある先生は、フェルマータはバス停だと言っていた。バスはバス停に着く前に速度を落として、バス停で停車して、それから発進するだろう、というわけだ(笑)
ちなみに、フェルマータには良く知られている音を伸ばす、と言う意味もあるし、次から新しいフレーズ、という意味もある。それぞれ使い方が違うらしい。モーツァルトはリットの意味で使っていたところもあったように思う。


・シューベルト前後の時代のFやPは音量というよりは、エネルギーの増減だと捉えた方が良い場合がある。今のピアノは当時の楽器と比べると、音量の差が少ないからである。ゆえに、私たちはそれを音量以外で補う必要がある。Fの場合ならテンポをほんの少し早めたり、緊張感を保ちつつテンポを遅くしたり、アーティキレイションをはっきりさせたりする。Pの場合はその逆である。また、PPやPPPは明らかにテンポが遅くなる場合が良くあるように思う。


・ベートーベン、シューベルトを弾く場合、高音域の音よりも、低音域の音が大きい方が良い。左手の上に右手が乗っかっている、という感じだ。これも当時の楽器の特徴だが、当時の楽器は音域によって音質が違い、低音域は太く、高音域に向かって繊細になっていく。


・ブラームス以降になるとあまりお目にかかれないかもしれないが、伴奏がない、あるいは伴奏が一小節に和音1つ、という場合、歌手はレツィタティーボのように自由に歌うのが良いと思う。

・伴奏が無い、あるいは1つと書いたが、伴奏が拍を示唆しない部分、あるいは歌詞が、歩みなどの一定の拍を表さない場合に関しても自由に歌っていいように見える。これらの例は、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンにおいて多く見られる。これに関しては、非常に難しいが、音の響きと自分の良心に従うほかはないように思う。

・シューベルトに見られる細かすぎる音符は、基本のテンポが早いものを除けば、時間をかけてそれを聞かせるという方が良い場合が多い。シューベルトに限ったことではないけれど、演奏者は聞き手に全てが分かるようにしなければならない。



ーまとめー


伴奏者が絶対にやってはいけない事が1つだけあります。それは、ピアノの音量で、歌い手さんの声を消し去る事です。これは、どんな言い訳を持ってしても、伴奏者は共演者なんだ!とか、伴奏は単にあればいいものではない!と言ったとしても、やってはいけない事です。だからなのかもしれませんが、音量以外の解決の道を模索するのかもしれません。

H.ヴォルフやR.シュトラウス、G.マーラーと言った作曲家については今回は書かなかったのですが、彼らは上に書いてきたような事を集約している、と言う風に私は考えています。今、ピアノの弾き方で、何々流の弾き方というものは無いと思いますが、ツェルニーは、クレメンティ、モーツァルト、ベートーベン、フンメルと言ったピアニストは、それぞれに弾き方が違ったと書いています。そして、その後で出てきた奏法は、それぞれの良い所を取っていった、とも書いています。


もう1つだけ。シューベルト前後の時代は、テンポの変化がかなり重要であると私は思っています。実のところ、これが一番言いたかったりするのだけど、これを文字で説明するのは力不足だったのが反省する点です。調性の変化、音色の変化、メロディーの流れ、和声の流れ、そういった物に耳を傾けると、インテンポでももちろん良い場合もあるけれど、それだけでは伝わらない事が多いように私は思います。

ツェルニーは全ては聞き手が理解できるように表現しなければならないと説き、ズルツァーはリートは何にもまして感動が大切である、というような事を書いています。私はリートを弾いたり聞いたりすると感動させられる事が良くあります。自分の感動を、伴奏を通じて伝える技術をもっともっと持っていけたら良いと、これを書いていて思いました。

最後までお読みいただき本当にありがとうございました!

井出コ彦


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