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〜伴奏という広い世界〜
      
  伴奏者としての私
ー伴奏という世界ー


ー目次ー
 
ーLektion1ー   ーまず手始めにー
 
ーLektion2ー   ー歌ってみようー
 
ーLektion3ー   ー処方箋としてのブレスー
 
ーLekiton4ー   ー前置き・本題ー
 
ーLektion5ー   ー本題その2ー
 
ーLektion6−    −有節歌曲ー
 
−Lektion7ー   ー伴奏が好きな理由ー
 
−Lektion8ー   −伴奏が好きな理由2−
 −Lektion9−   −伴奏について最近思う事ー
 −Lektion10ー   −F.シューベルトー
 −Lektion11ー   −歌曲に取り組むー
 ーLektion12ー   −歌曲に取り組む・その2−
 ーLektion13ー   ー拍についてー
 −Lektion14−   −ドイツ歌曲をグループ分けしてみるー
 ーLektion15ー   −詩の解釈と音楽表現ー







ーLektion4ー  −前置き・本題ー


 ではそろそろ本題に入ろう。まだ言い足りないところはあるかもしれないが、一例を載せておくのは効果的であると思うので、リーダークライスop39の初めの曲。In der Fremedを取扱いたいと思う。2つ注意してほしい事がある。1つはなぜこの曲が最初なのかにはあまり意味がないという事だ。これを取り上げようと思った理由は「朗読と歌」の演奏会があって、最初に取り組んだからである。この曲が初心者用だとか、そういうことではないことはあらかじめ伝えておかなければならないだろう。2つ目は、これは「朗読と歌」で組んだ橋幸恵さんと仕上げたので、私の伴奏の仕方が全てこれにあてはまるわけではないという事だ。私の意見がないわけではなく、歌い手さんによって私は考え方、弾き方を変えている。だからこれは一例であることは覚えておいて頂きたい。




 
さて、リーダークライスの中から「異郷にて」。この題名で始まる曲に関してあなたは何を知っているだろうか?詩人は誰だろう?作曲者は誰だろう?いつの時代の人だろう?どんなことが書いてあるのだろう?
詩人はヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ。作曲家はロベルト・シューマン。時代はロマン派にあたるだろう。
歌詞に関しては大体こんな感じである。

あの赤い稲光のはるか向こうにある故郷から

雲が流れてくる

父も母も世を去って久しく

私を知る者は そこにはもう誰もいない


もうすぐ、ああもうすぐやってくるだろう 静かな時が

その時私も安らぎを得て

美しい森の寂しさがざわめくだろう

そして私を知る者はここには誰もいなくなる。


 ここまではまあ大丈夫だろうと思う。少しだけでも詩人の事を知っておくことは良いかもしれない。特にこの曲に関しては知っておいた方がいいと思うので、できればあなた自身で調べて欲しいが、一応書いておこうと思う。勿論彼について私なんぞより詳しい方は読み飛ばして欲しい笑 
 
 詩人ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(以下アイヒェンドルフ)は故郷への憧れを描いた詩が多い。それも彼の伝記を読んでみると納得できるかもしれない。現ポーランドのラティボアという地に、領主の息子として生まれ、幸福な少年時代を過ごしている。故郷を去って大学、軍隊、役人仕官などの為に色々なところへ行っている。が、そこでなじめたのか、なじめなかったのか、時折彼は故郷の事を思い出している。しかしこの故郷にある自分の城は、負債の為に他人の手に渡ってしまう。彼の故郷の家は事実上なくなってしまったのだ。そんな所からもこの詩を考えてみると深い郷愁。哀愁が漂ってくる。

 さて、簡単に詩人について話せた。これで、一応の準備はできたはずだ。あまり詳しく詩人について述べないのは、私の敬愛するルッツ先生に伴奏を習いたての頃、詩人の研究もいいが、とりあえず今は演奏に集中しなさいと言われたからである。詩人の事をものすごくよく知っていたとしても、それを表現できなければ・・・であると思う。
もちろん、ドイツ文学が好きで好きでたまらない人はそれで良いと思う、すでに私なんかよりずっと詳しいはずだ。





  


写真1            写真2             



 
写真1はこの曲の前奏部分である。
16分音符のグループはスラーでつながれている。そして、次の16分音符もスラーでつながれている。その中でFisにアクセントがついている。

 まず私が疑問に思うのは、なぜシューマンは8つある16分音符を繋げなかったのか、という事だ。
確かに古典派では、、アーティキレイションの付け方、スラーの書き方を見ると、16分音符4つで一塊にするアーティキレイションがほとんどである。しかし今はすでにロマン派。フレーズをまたがってスラーを書き始めたのは確かベートーベン(定かではないが)からだったと思われる。もちろん、その時代のスラーにはそのスラーで、もちろん意味はあっただろうが、写真1ののスラーの意味と、古典派のスラーの意味とは果たして同じだろうか?私はかなり違っているように思える。というのは、シューマンが16分音符を8つで一塊にしているフレーズは普通に見つけられるからである。
 
 そして、Fisについているアクセント。これを額面通り受け取っていいのだろうか?少なくとも私はそうは思っていない。アクセントと見ると、とりあえず大きく目立つように弾く人もいるが、今回においては私はそうではないと思っている。このアクセントに関して私の先生は、「死の鐘」と言っていたそうだ。しかしある先生はやはりこれについては謎のままだとも言っていた、私はこれを死の鐘とまでは言わないけれど、別の世界に人を誘う何かの音だと思っている。何にせよ、誘うような音なのにとんがった音では主人公も安らげないのは間違いないだろう。

さて、二つの事を噛み合わせて考えてみると、おそらく私はfisを強調したい為と、上に向かう時、下に向かう時の16分音符の動きに差を付けたかったのではないかと考えた。ゆえに、あえて、16分音符の塊同士を分けてスラーを付けたのではないかと推測した。


 しかし考えてみよう、そうするとこれはかなり難しいアーティキレイションになる事は必然だ。ともすればとても変なアーティキレイションや音楽の動きになってしまう。ここからはもう個人個人の趣味の問題なのと、歌い手さんの歌い方によってやり方はずいぶん変わってくる。
 ちなみに余談ではあるが、歌い手さんに聞いてみたら、私はアクセントの前でかなり時間をとっているそうだ。それを印象付けたら、私は後はそこまで強調しないようにしているらしかった!(笑)あとで聞いてみたら歌が入っている時はそういう風に弾いていないらしい。自分の音楽を聞けていない自分に反省した一場面だった・・・もしかしたら、私とは全く違う方法でこの問題を解決している人がいるかもしれない。是非その方達のリートドュオを聞いてみたい。





ー写真2ー


 この写真に注目してもらいたい。ピアノの音色という欄にも書いたのだが、ここでは私は写真1の通りにピアノを弾いていく。まだピアノの音色の欄に書いていないのだが(2013年5月現在)私はこの部分を腕の重さを使って弾いている。ピアノの音色の方でも説明したのだけれど、手を構えた時に腕は自分で自分(腕)を支えている。その力の均衡を崩すことで、鍵盤には自然と力がかかる(腕の重量)それを利用して私は弾いている。最後に頼りになるのはもちろん自分の指先の感覚だが、使っている力は指ではなく、腕を使っている。もしかすると、テンポが速くなるとこれは使えないかもしれないが、とりあえず私はそう弾いている。つまり、指は曲げないで、平べったいまま、指ではなく腕で弾いているということである。
そして、無理なくアクセントが響かせられるように、アクセントがついている所だけ、指を少し曲げて、垂直までは行かないけれど、曲げている。

 
 ちょっと分かりにくいかもしれないけれど、試してみて欲しい。ピアノの音色が増えるはずだ。文章で書かれていると難しいかもしれないが、やってみればそんなに難しい事ではない、と、今は思う笑 すぐできる人もいるはずだ、でもすぐできない人もいる。私は少なくとも前者ではなかった。
なぜ私は平べったい指と、腕の重さを選んだかと言うと(正確にはまた別の所で説明すると思う)、もちろん曲の性格(この曲は何調だっただろう?)もある。というのも、平べったい指では、かっちりした音は出にくい(決して出ないわけではないので注意は必要)。そして、その代わりに、後からその味わいが感じられるような音が出てくる。腕の重さは、手首、指、鍵盤というプロセスを通るので、私にとっては調整は効きにくい。しかし、このやり方は、マテイ教授の言葉を借りれば、意図的な音を出しやすいと言う利点がみられる。そういう理由で私はこれを選んでいる。

Lektion5では今回の続きを少し書きたいと思います。


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