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〜伴奏という広い世界〜
      
  伴奏者としての私


ー目次ー
 
ーLektion1ー   ーまず手始めにー
 
ーLektion2ー   ー歌ってみようー
 
ーLektion3ー   ー処方箋としてのブレスー
 
ーLekiton4ー   ー前置き・本題ー
 
ーLektion5ー   ー本題その2
 
ーLektion6ー     ー有節歌曲ー
 
ーLektion7ー     ー伴奏が好きな理由ー
  ーLektion8−    −伴奏が好きな理由2−
  ーLektion9−     ー伴奏について最近思う事ー
 ーLektion10ー    −F.シューベルトー
 ーLektion11ー    ー歌曲に取り組むー
 −Lektion12ー     −歌曲に取り組む・その2−
  ーLektion13ー     −拍についてー
 −Lektion14ー     −ドイツ歌曲をグループ分けしてみるー
 −Lektion15ー     −詩の解釈と音楽表現ー
  

ー拍についてー



一流の音楽家と言われる人たちの演奏を聞くと、本当に自由に演奏をしているなぁと思うし、留学していた方や海外の先生は、音楽はもっと自由なものだと言う。


わりと早い頃から、そういう風に感じたり教わったりしていたせいか、私は拍をあまり意識したことが無かった。いや、無かったというよりは、避けていたように思う。拍は、テンポが無意識に遅くなったり早くなったりする時、音価の長さが不明瞭な時、そういった短所を打ち消すのにはとても有効であるが、より良い音楽表現には、それ程寄与するものが無いと考えていたからである。

しかし前回リズムというものを考えている内に、私はこの認識を改めなければならないと思うようになった。拍は、リズムから生まれる音楽的表現を制限するものではなく、リズムにストレスを与える事で、より良いリズムを生み、そしてより良い音楽表現を生むために必要なものだと思うようになったからだ。

今回はこの事について少し書いてみよう。


※ちなみに、ここで使われているリズムは、スポーツ選手が時々使う、「ゲームのリズムが〜」という様なリズムだと思ってもらえれば幸いです。詳しくは前回の、歌曲に取り組む・その2をお読みいただけたらとても嬉しいです。




ー拍に対する誤解ー



どうして私は、拍を短所を打ち消すだけのものと考え、避けるようになってしまったのだろう?


今考えれば、それは、打たれた拍には必ず合わせなければならないという思い込みが原因だったと思う。この思い込みのせいで、様々な場面で音楽表現と拍は対立してしまった。一方の車輪は右を向き、もう一方の車輪は左を向いている、という風になってしまったのだ。
自分が、どんなにか考え抜いた音楽表現も、無慈悲に打たれる等間隔の拍は、それを縛ってしまう。ゆえに私は拍を考える事を避けていた。

だけれども、リズムを考えている内に、拍と音楽表現は別物として捉えるべきではないか、と考えるようになった。以前の私は、車の両輪のように、常に一緒に動いていかなければならないものとして考えていた。だけど拍は、馬にとっての手綱、道行く人の一里塚のようなもので、音楽表現を拍に必要以上に合わせる事はない、と考えるようになった。



そうやって考えて拍を打ってみると、この合わせずに打たれる拍は、リズムに影響を与える存在になる。それは、リズムを抑制したり、反対に補完したりするようになる。リズムは、時に強く、あるいは弱くなりすぎる傾向があるので、もしその中で何もしなければ、音楽表現は迷子になってしまうのだ。だから、その為に拍は必要だと私は今思う。例えばどんな時か、少しだけ挙げてみよう。


・書かれた場所でのリタルダンドやアッチェレランドが効きすぎる時
・書かれていない場所でのアゴーギクが強くなりすぎる時


こういった時は、拍を持ってリズムで制御したり、補完したりする方が良いと思われる。この時大切な事は、繰り返しになってしまうが、音楽表現と拍は別のものだという意識である。一里塚のような目標であり、馬をコントロールする為の手綱であり、車輪ではない。音楽表現は、時間と共に進んで行かなければならない。その中に拍は打たれるのである。そうする事で、強すぎる(早過ぎる)リズムは、後ろに引っ張られ、弱すぎる(遅すぎる)リズムは、前に引っ張られる。すると、不思議な事により良いリズムへと変化するのである。

また、長い音で終わる時などもそうである。こちらもリズムが弱まっていく。それを補完するために拍は、音が伸びている間打たれるべきである。そうすると、リズムはやはり活性化され、より良いリズムになると思う。



ー拍は常に打たれるものなのだろうか?ー


基本的にはリズムを感じていれば、よい音楽表現ができると私は信じている。拍は、リズムを適切に制御するために打たれるべきであると思う。ただ、オペラやオーケストラと言った、元々複雑かつ大きなリズムを持つものは常に拍がいると思う。オペラやオーケストラにはやはり指揮者が必要だと思うからである。



ーまとめー


少し駆け足で書いてしまったけれど、今の拍に対する考え方が上手く伝わっていたらいいなぁと思っています。拍に対しては余り良いイメージが無かったけれど、これからは拍もきちんと使って表現ができるようになるといいなぁと書いていて思いました


歌曲の伴奏をやっていて漠然と思う事は、産業革命が起こり、それが伝わり始めた時期と、それが当たり前になった時期とで、リズムと拍は段々と力関係が変わってくるように思ういます。前者はリズムの力が強いですが、後者は段々とリズムをコントロールしようという力が強くなってきているように思います。そうやって意図して書いているわけではないと思いますが。

シューベルトやブラームス、シューマンといったロマン派の作曲家はリズムの力が強く、拍が意識され始めるくらいの辺りにメンデルスゾーンがいて、拍が強く意識されはじめるのは、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ヴォルフかなぁと私は勝手に思っています。

なぜこういう風に思うかと言うと、簡単に言えば、リズムが複雑になっていくからです。例えば、和声や音の響きが複雑になればなるほど、一里塚としての役割を持つ拍が、どうしても必要だと私は思います。ただ、面白い事に、それほど複雑ではないモーツァルト、ハイドンといった古典派にあたる作曲家も、拍を意識した方が良い時が多々あるように思います。舞踊や、民族音楽の影響がまだ色濃かったのかなぁと、やはり漠然と思っていますが・・・それとも別の何かがあるのかなぁ。


リズムと拍という視点からドイツ歌曲を眺めてみると、作曲家によって、その印象は本当に様々で、どれが優れている、どれが発展しているものとは言えません。好きなドイツ歌曲をもっともっと知ってもらって、ドイツ歌曲を耳にする機会が増えたらいいなぁと常に思っております。


最後までお読みいただきありがとうございました。次へ


井出コ彦











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