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〜伴奏という広い世界〜
      
  伴奏者としての私


ー目次ー
 
ーLektion1ー   ーまず手始めにー
 
ーLektion2ー   ー歌ってみようー
 
ーLektion3ー   ー処方箋としてのブレスー
 
ーLekiton4ー   ー前置き・本題ー
 
ーLektion5ー   ー本題その2
 
ーLektion6ー     ー有節歌曲ー
 
ーLektion7ー      ー伴奏が好きな理由ー
  ーLektion8−    −伴奏が好きな理由2−
  ーLektion9−     ー伴奏について最近思う事ー
 ーLektion10ー    −F.シューベルトー
 ーLektion11ー    ー歌曲に取り組むー
 −Lektion12ー     −歌曲に取り組む・その2−
  ーLektion13ー     −拍についてー
 −Lektion14ー     −ドイツ歌曲をグループ分けしてみるー



ー詩の解釈と音楽表現ー




ドイツ歌曲は詩の解釈が大事。そんな風に言われる事が多いと思うのですが、この事について思い悩むことはないでしょうか?
人によっては、そんな事当たり前だ、と終わってしまう話題の様な気もするのですが、私自身はこの事についてずいぶん長い間悩んで来ました。なぜなら、詩の解釈が大事だというのは分かるのですが、詩の解釈って何をすればいいのか、そしてそれをどんな風に音楽と結び付ければいいのか、良い方法が自分の中で見つからなかったからです。



音楽に詩の内容が表れているという事は、先生から教わったり、また、自分でも、ある程度伴奏に慣れ、ドイツ語にも慣れてくれば分かってきます。
例えばこの部分は川だ、鱒だ、雷だ、愛のささやきだ、スミレを踏んじゃったんだ、ハチの羽音だ、とこんな風にどんどん分かってくると思います。私はずっとこの辺りで止まっていました。言い訳をするなら、伴奏は本当に学ぶ事が多く、とりあえず詩の解釈をした気分になって安どしていたのかもしれません。



でもこの問題に真剣に取り組んでみると、色々と不都合が出てきます。川だ鱒だと言うけれど、じゃあそれ以外の部分はどうするのか?とか、逆に、川だ鱒だと言う部分でも、急にそこにそれが現れたわけではないのに、自分の表現は不自然ではないだろうか、というようにです。考え始めると、色々と手につかなくなることもありましたが、ようやく、私はドイツ歌曲作品の絵をかいてみるという所にたどり着きました。


絵と言ってもキャンパスに描かれた絵と言うわけではなく、頭の中で書いた絵なので、本当に絵を書くわけでもないのですが・・・イメージでも良かったのですが、私の頭の中では絵なので、絵にしたいと思います。そしてそれは、一枚、ないしはできるだけ少ない枚数の絵、または、映像に限りなく近い絵か、映像です。

この辺は作曲者や作品によって違うように思います。前回分けた1(シューベルトやシューマンなど)、2(メンデルスゾーンやブラームス)、3(R.シュトラウスやヴォルフなど)であてはめるなら、1の作曲家の作品は絵が多く、3の作曲家の作品は映像が多いかなぁという感じです。2の作曲家は半々くらいです。
絵なのか映像なのかに関しては、また別の機会に書きたいと思います。今回は絵を書く事について書いていきます。

前置きが長くなりましたが、シューマンのIn der Fremdeを例に出して、書いていきたいと思います。


ー絵を書いてみると分かる事ー


一応日本語訳だけ載せておこうと思います。


あの赤い稲光のはるか向こうにある故郷から
雲が流れてくる
父も母も世を去って久しく
私を知るものは そこには誰もいない

もうすぐ ああもうすぐやってくるだろう 静かな時が
その時私も安らぎを得て
美しい森の寂しさがざわめくだろう
そして私を知るものはここには誰もいなくなる


さて、絵を描こうと思うと色々な事を考えていかなければなりません。少し書き出してみましょう。



・主人公(以下彼)はどんな景色を見ているのか。

この詩で出てくるのは、赤い稲光と雲、森くらいですが、それだけを見ているわけではないと私は思います。集落だってあるかもしれない、畑もあるかもしれない、あぜ道もあるかもしれない、故郷と今いる場所を隔てる山のようなものもあるかもしれません。


・赤い稲光はどの辺にあるのか?近いのか遠いのか。

少なくとも私は、彼のすぐそばで雷が鳴っているようには思えません。4小節目(確か4小節目)にゴロゴロという描写がありますが、ここをあえてFやアクセントをつけているわけでもありません。なので、遠いのだと思います。それに、もし稲光が近くでなっていたら、彼はずぶ濡れになってしまうし、雨の描写もこの詩には出てきていないので、おそらくは稲光も遠いのだと思います。もし、近かったらもっと違う作品になっていると私は思います。


・雲はどれくらいの速さで流れてくるのか?

雲の流れが早過ぎると、怒ったり、悲しみに明け暮れているように見えるし、遅すぎたり、動いていなかったりすると、それは牧歌的な印象を与えるような気がします。
この点では、シューマンの書いたNicht schellというテンポ表示がすごい効き目を持っているように私は思います。Maessigでも、Nicht langsamでもなく、Nicht schnellという所が私はとても好きです。



ところで私は、この作品では、彼が見ている景色を書きたいと思っています。絵の中に彼がいるのではなく、彼の視点で見ている景色です。私はそうですが、気分が明るいと同じ景色でも明るく見えるし、暗ければ暗く見えます。彼は今どんな気分でこの景色を見ているのでしょうか?

mutterの部分で、彼は一瞬深い悲しみに襲われるのかもしれませんが、彼の気持ち、感情は、私の中では寂寥感という言葉が当てはまります。(人によって寂寥感という言葉の感じ方が違う気もするのですが・・・)寂しいような、取り残された感じもあるけれど、だからと言って、打ちひしがれているような悲壮感が漂っているわけでもない。長い間積もり積もった寂しさやわびしさ、そんな感じです。後半部分は解放というか、安らぎを得る様なものも見えてきます。


そんな事を考えてみると、全てが寂寥感で覆われて、くすんで見えているわけでもないし、だからと言って解放や安らぎ一杯で、明るく見えているわけでもなさそうです。上に書いた雲の流れや稲光も、他の誰でもない、彼にとってどう見えているのか、という事が大事だと私は思います。


絵を書くと言ってきましたが、作品の世界を想像して、そこに自分を置いてみると言うのがもしかしたら、適当かもしれません。



ーまとめー


正直なところ絵を書くのが下手です。本当は書いた絵をここに載せた方が早かったかもしれないのですが、それはできません(笑)でも下手でいいんです。


そう言えば、私がこれを最初に考えるきっかけになったのは、確か、先生に日本にはハイクという物があるんじゃなかったっけ?というたわいもない会話を、ある本を読んでいた時にふと思い出したのがきっかけです。柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 という俳句を皆さんご存知だと思うのですが、この俳句からどんな絵を想像しますか?と聞かれたら色々アイディアが浮かぶのではないでしょうか。ドイツ歌曲の作品を絵にする時もこれと同じ感じで、違うのは、詩だけではなく音楽も交えて詩の世界を想像している事かなぁと思います。

また、前置きの所で、一枚のないしはできるだけ少ない絵でと書いたのは、俳句を考えると、何となく察しがつくかもしれません。柿くへば〜の俳句の絵を書こうとした時、柿を食べるで一枚、鐘がなる様子で一枚、法隆寺で一枚、という風には書かないと私は思うからです。意図があればまた違うかもしれませんが。


つまり、鱒が出てきたら鱒を、川が出てきたから川をというよりも、一枚の絵の中に、歌曲作品が作った世界の中に書かれている鱒であり、川を表現する事が大事なのではないでしょうか。1枚の絵の中に、ここにはこんなのもあるんだよ、というさりげなさが大きな意味合いを持つのではないかなぁと私は思います。また、そういった部分が一杯あって、アゴーギクが多くあっても、1枚の絵から見られるものなら、それは良い音楽表現になるのではないかなぁと思っています。



音楽表現に関しては、想像した世界を思い浮かべながら弾いてみれば、経験上直結します。ちょっとだけ参考までに書いておきたいと思います。

太陽だからと言っていつもまぶしいわけではなく、春と冬の太陽は違います。朝なのか昼なのか、夕方なのかでも違います。晴れていても、主人公は落ち込んでいるかもしれません。

ヨーロッパは冬が厳しいから春は喜びだと良く言われますが、春がもう来ているのか、春が近づいているのかでは大分違う様に思います。また、登場人物がそれに気づいているかどうかによっても変わるのではないでしょうか。

ドナウやラインのような、ある種象徴的な川なのか、それとも町のほとりにある小川なのか、そしてそれは、穏やかなのか、それとも小さいけれど引きずり込まれそうな川なのか。



こういった事を考えるのは本当に楽しい作業です(笑)こういった事が、音楽の抑揚や調子、アゴーギクやアーティキレイションに影響すると私は思っています。ずいぶん長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました!全て絵にできるかと言われると、正直まだまだ自信がありません。もっと詩と音楽の世界を作りたいなぁ。。。

井出コ彦









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